・・・と言うほど河は常にゆるやかな訳でも穏やかな訳でもないとは思うけれど、何かの縁で「出会った」人たちとはそのような関係性を維持し続けていきたい、と私は思っている。
それは、仕事を通じてかかわらせていただいている障がいのある方々に対してもそうだし、やはり何かの縁で一緒に働くことになった職員たちにしても、同じ。もっと言えば、学生時代や社会人になってから「出会った」仲間たちだって、同じこと。
俺たちが住んでいる世界は 俺たちが知っているたった一つの世界だ
と、若いころに入れあげていたある詩人だったかトリックスターだったかがリーディングしていて、その頃は分かったような分からないような気でいたけれど(でも、深く心をえぐられた)、年相応の経験を積み、いつの間にか当時の彼の年齢を超えてしまった今なら、その言葉の意味が、良くわかる。
「こうであったかもしれない様々な可能性」をはらみながら、我々はたった一度しかない、他に選びようがなかった人生を、好むと好まざるとにかかわらず、生きる他ないのだ。
だから、このたぶん一度きりの人生を真剣に生きている人たちは、そいつが善人であれ悪党であれ、人間であれそうでなくとも、私にとっては、みんな、仲間(ただし、己の欲望のために他人を故意に傷つけるようなヤツは論外)。相手はあんまりそうは思ってくれないけどね…
ところで、じゃあ真剣に生きていない、チコちゃんに怒られちゃいそうななんとなくボーと生きている人たちについてはどうなのか?と言うと、正直言うとあまり興味がない。というか、自分の手の届く範囲のことに必死すぎて、そこまで考えるゆとりが、これまではなかった。
でも、それじゃあいけないのかな?なんてことを40代も後半になってようやく考えている今日この頃だったりする。「大人」の責務ってヤツね。
それはさておき、昨日は、私の中で、過去に自分の力が足りずに「こうあるべき」だと思た通りに進めることができなかったあるケースについて、ある種の「おとし前」をつけることができた1日だった。
何年かに一度あるかどうかのような出来事で、そんなにしょっちゅうあることではないのだけれど、そういう出来事に立ち合う機会を得ることができることが、この仕事の醍醐味だと思っている。それは決して金銭で買えるような代物ではなく、ましてや何かの取引きの結果得られるようなものでもなく、等身大を超えたリスクや犠牲を払いながらも自分の信じた道を突き進んでいる人間にしか訪れない<恩恵>のようなものなんだと思うな。(もっとも、へたれな私は普段はそんなにリスクを背負って生きている訳ではないので、たいして沢山の<恩恵>にはあずかることができていないんだけど…)
どうせいつか死ぬんだったら、今この瞬間に死んでしまいたい…なんてことを思わない訳でもない。けれど、「河よりも長くゆるやか」な関係を続けていくためには、今死んでしまっては元も子もないし・・・という訳で、私は様々な「出会い」によって、今日も生かされている、という訳。ほんと、「感謝」しかないですよ。
時代を渡る小舟の 数えきれない中の一つ
そういえば、昔、私のソウル・シスターだったアネゴも言ってたっけ。
どこに向かっているのか分からない手がかりの無いこんな世の中でも、「信じられるもの」があるってのは、「幸せ」なこと。
<福祉>は幸せを意味する言葉だと人は言うけれど、実は、それは誰かの「幸せ」を願って「自分」を顧みずに行動することで、結果として、自分にもその「幸せ」のお裾分けを貰える(こともある)というこの世の「理」を表しているのだと、私は思っています。
という訳で、何だかよく分からないこの文章もここいらで、一旦おしまい。
「生きる」って素敵なことだ。