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河よりも長くゆるやかに

  • 執筆者の写真: Gさん
    Gさん
  • 2024年6月2日
  • 読了時間: 3分

更新日:3月26日

・・・と言うほど河は常にゆるやかな訳でも穏やかな訳でもなく、それは私たちの日常にしても似たようなものであるとは思うけれど、何かの縁で「出会って」しまった人たちとは、そのような<関係性>を維持し続けていきたい、と私は思っている。


それは、仕事を通じてかかわらせていただいている障がいのある方々に対してもそうだし、やはり何かの縁で一緒に働くことになった職員たちにしても、同じ。もっと言えば、学生時代や社会人になってから「出会った」仲間たちだって、同じこと。



俺たちが住んでいる世界は 俺たちが知っているたった一つの世界だ



と、若いころに入れあげていたある詩人だったかトリックスターだったかがリーディングしていて、その頃は分かったような分からないような気でいたけれど(でも、深く心をえぐられた)、年相応の経験を積み、いつの間にか当時の彼の年齢を超えてしまった今なら、その言葉の意味が、良くわかる。


「こうであったかもしれない様々な可能性」をはらみながら、我々はたった一度しかない、他に選びようがなかった人生を、好むと好まざるとにかかわらず、生きる他ないのだ。


だから、このたぶん一度きりの人生を真剣に生きている人たちは、そいつが善人であれ悪党であれ、人間であれそうでなくとも、私にとっては、みんな、仲間。相手はあんまりそうは思ってくれないけどね…



ところで、じゃあ真剣に生きていない、チコちゃんに怒られちゃいそうななんとなくボーと生きている人たちについてはどうなのか?と言うと、正直言うとあまり興味がない。というか、自分の手の届く範囲のことに必死すぎて、そこまで考えるゆとりが、これまではなかった。


でも、それじゃあいけないのかな?なんてことを40代も後半になってようやく考えている今日この頃だったりする。「大人の責務」ってヤツね。



それはさておき、昨日は、私の中で、過去に自分の力が足りずに「こうあるべき」だと思う方向に進めることができなかったあるケースについて、ある種の「おとし前」をつけることができたように思えた1日だった。


そういうことは滅多にあることではないのだけれど、そういう出来事に立ち合う機会を得ることができるのが、この仕事の醍醐味だと思っている。それは決して金で買えるような代物ではなく、ましてや何かの「取引き」の結果得られるようなものでもなく、等身大を超えたリスクや犠牲を払いながらも「何か」を信じてそこに向けて自分を「差し出す」ことを厭わない人間にだけ訪れる<恩恵>のようなものなんだと思うな。(もっとも、「へたれ」な私は普段はそんなにリスクを背負って生きている訳ではないので、たいして沢山の<恩恵>にはあずかることができていないんだけど…)


どうせいつか死ぬんだったら、今この瞬間に死んでしまいたい…なんてことを思わない訳でもない。けれど、「河よりも長くゆるやか」な<関係性>を続けていくためには、今ここで死んでしまっては元も子もないし・・・という訳で、私は様々な「出会い」によって、今日も生かされている、という訳。ほんと、「感謝」しかないですよ。



時代を渡る小舟の 数えきれない中の一つ



そういえば、昔、私のソウル・シスターだったアネゴも言ってたっけ。


どこに向かっているのか分からないこんな世の中だけど、「信じるに値する何か」があるってのは、とっても「幸せ」なこと。


<福祉>は「幸せ」を意味する言葉だと人は言うけれど、実は、それは誰かの「幸せ」を願って「自分」を顧みずに行動することで、結果として、自分にもその「幸せ」のお裾分けを貰える(こともある)というこの世の「理」を表しているのだと、私は思っています。


という訳で、何だかよく分からないこの文章もこの辺で、一旦おしまい。


「生きる」って素敵なことだ。


 
 

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