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執筆者の写真Gさん

僕がここにいる理由 その3

更新日:2022年2月5日


僕たちが暮らしている日本という国は、「立憲民主主義」(これは、憲法によって国家権力を制限する「立憲主義」と、最終決定権(​主権)を国民(人民、民衆、大衆)が持つという政体・制度である「民主主義」とが合わさったものですね)を採用している「法治国家」のはずなんだけど、悲しいかな、頭の悪い僕たちは、あんまりそのことの重要性というものを理解できていない。


「頭が悪い」というのは語弊のある言い方だな。「未だ覚醒していない」と言い直そう。


という訳で、我々国民の運命を左右しかねような重要な法律が、憲法との整合性も深く考慮されずにいつの間にか作られ(仮に報道されたとしても後追い的だったり、さらには膨大な情報の洪水に飲まれてしまったりする…)、ある日を境に、僕たちの暮らしに影響を及ぼし始める。そして時間が経つと、僕たちはその経緯をまるで何事もなかったかのように忘れ、いつしかそれを「当たり前」のこととして受け入れる。そんな経験を、僕たちはバカの一つ覚えのように繰り返してきた。


そして、そういった経験は僕たちに、知らず知らずのうちに「オマエたちには、社会や自分自身の運命を変える力などない」という<無力感>を植え付けてゆく。でも、そんなのクソくらえだね。(おっと…)



* * * * *



「障害者自立支援法」(現・「障害者の社会生活及び日常生活を総合的に支援するための 法律」)も、そんな風にして僕たちの生活に忍び込んできた。そして、定着した。


もちろん、法律が成立するまでは(そして、施行してからも)、心ある人たちからの反対 意見の表明や抵抗運動のようなものはあった。しかし、結局法律は施行されることとなり、

いわゆる「バブル崩壊」後の低成長の時代、さらに労働生産年齢人口の減少という社会構造の変化を前にして、それまで「無認可」の法定外施設として運営していた多くの「作業所」も、事業の持続可能性を考えると(主に職員の確保や待遇改善などの観点から)、新法体系の「障害福祉サービス事業所」への移行を選択せざるを得なかった。背に腹はかえられぬ、という訳だ。


それまで「作業所」で働いていた僕たち(当時の職員たち)は「自分たちは月10万円以上もの給料を手にしているのに、同じように働いている障がいの仲間たちには多くても3万円程度しか払ってあげられないのはどうしてなのだろう?」というような悩み方をしていた。実際には時給換算で100円も払ってあげられていない仲間たちの方がよほど多かったから。


そうした「みんなへの申し訳なさ」が、今から考えると単純極まりないが、僕たち職員の

労働の原動力であったと言っても良い。「自分のため」にはそこそこしか頑張れなくても、「誰かのため」だったら、「自分」という小さな枠を超えた力を発揮できるんだ、人間は。



* * * * *



新法体系の「事業所」へ移行したことで、少なくとも職員側は1日8時間×週5日間働けば、「常勤」として雇用されるようになり、「人並み」の生活もできるようになった。

「人並み」といのは、例えば、3度の飯をしっかり食べて、賃貸アパートの家賃や電気ガス水道料金もきちんと払って、中古の自動車を買って、たまの休みには旅行もして…みたいなささやかな暮らしのことね。


世の中全体から見たらどうか?という問題はあるにしても、少なくとも僕に関して言えば、自分が働いていた「作業所」が新法体系の「事業所」へと移行した2007年4月以降、良くも悪くも自分たちが「社会の中に組み込まれた」という感覚を強く持つようになったし、 その結果、自分たちの社会的地位や待遇も、それ以前と比べればだいぶマシになったという実感もあった。これらは、客観的に見れば、新法体系移行の良い側面だったと思う。


さて、自分たち「職員」の社会的地位や待遇は(それなりに)改善した。

では、新体系後は「利用者」(福祉サービスの受益者)と呼ばれるようになった、これまで雨の日も風の日も一緒に働き、苦楽を共にしてきた「障がいのある仲間たち」は、そのぶんより良いものなったのか?


そのような<課題意識>が、結果として僕たちを新しい事業所の開設へと向かわせ、更には2008年3月の1to1の設立へと繋がってゆく。



(text by 武井 剛)




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