誤解を恐れずに言えば、障がいのある人たち、特に知的障がいのある人たちと一緒に時間を過ごすことは、”楽しい”。
それは、彼や彼女らの、無邪気で無防備な「ユニークさ」(それを安易に「個性」と言ってしまうのは、僕には憚られるけれど)に寄る部分が大きいことと同時に、万が一にも自分が彼らや彼女らによって騙されたり、手痛い目に合わされたりすることなどないだろうというこちらの「心理的安心感」に寄る部分が大きいように思う。
言い方を変えれば、彼や彼女らは、僕たちが心にまとった鎧を一枚一枚剥ぎとってくれる。
(ちなみに、剝ぎ取られた鎧の下に何=どんな倫理や価値観があるのか?ということが大事だと気付いたのは、割と最近のこと。そういう意味では福祉は怖い仕事、だと思う。)
少なくとも僕の場合はそうで、面倒くさいアレやコレらをこじらせにこじらせまくって、
ニッチもサッチもいかなくなっていた当時の自分を救ってくれたのは「あの時の仲間たち」だったと、今も感謝しているし、その恩は一生かけて返していかなければいけないのだろうと思ってもいる。
(だから、人によっては、障がいのある人たちが僕らと何ら変わることのない、欲張りで、浅ましくて、ずる賢く、時に嘘もつく、「とても人間らしい」人たちであることを知ると、急にエラぶったり、対応が雑になってしまったりするのだろうと思う。僕に言わせりゃ、 ウチらもアンタらもカレもカノジョもたいして変わりゃしねーだろって感じなんだけどな。みな同じニンゲンだ。ビバナミダ!)
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ええと、何の話だったっけ・・・?
そうだ、「僕がここにいる理由」について。
僕が「運命のひとひねり」によって、船橋のとある作業所に流れ着いたところからでした。(そう、それまで僕は色々なものから逃げてばかりいたのだ。「運命のせい」にして・・・)
その前に、全然知らない人たちのために少し説明しておくと、
1990年代以降日本社会が低成長期に入って、少子高齢化が進んで税収の確保が難しくなる未来が予想されるようになった結果、保健・医療・福祉(介護)・年金などの社会保障制度全体の再構築を進める「社会福祉基礎構造改革」というものが始まります。
その結果、改正されたり創設されたのが児童福祉法(1997年改正)や介護保険制度(2000年~)、そして障害者自立支援法(現・障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律)に基づく障害福祉サービス制度(2006年10月~)だったりするの ですが、要するに何が起きたのかと言うと、
① 措置制度(行政権限としての措置により社会福祉が提供される仕組み)の廃止
② 利用者と事業者の直接契約による福祉の「商品・サービス化」
(建前上は、利用者側に「選択の自由」が保障されるようになった)
③ 「応能負担」から「応益負担」へ(サービス料の一部を受益者が負担する仕組み)
④ 規制緩和→民間企業等の参入による福祉の「事業化」「市場化」
です。
これらは実は(いろんな意味で)すごいことで、たとえば公立の小・中学校の義務教育制度が、規制緩和によって民間の事業者による運営を中心とする教育サービス産業に転換され、教育の受益者でもある生徒も保護者の収入によっては授業料の一部負担が生じるようになるようなものですからね。(だから私は、「そういう未来」だって可能性ということで言えば充分にあり得るのだと思います。)
まぁともかく、時代は、社会主義・保護経済から、新自由主義・グローバル経済へと移行しつつあり、わが日本では、<福祉>すらもそこに巻き込まれていったという訳。
それ以前の障害者福祉というのは、一方に、憲法で規定された最低限度の文化的生活を国民に保障するために国や地方自治体などが公費で設置し、社会福祉法人等に運営を委託した「事業」「施設」があり、一方に、そこから漏れた人たち・はみ出した人たちをカバーするために、当事者やその周りの保護者や地域住民などが互いに資金を出し合い寄付を募るなどしてボランタリーに始めた、個々の日常生活に根差した制度外の「活動」「運動」が存在し、結果的にそれらが相互に補完し合うことによって成り立っていたのでした。(後者は、映画にもなった『こんな夜更けにバナナかよ』の世界ですね。)
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僕が働きはじめた「作業所」もそういった「活動」「運動」が発展して出来たものの一つで、当時は任意団体である(法人格のない)「親の会」が運営していて、自分たちは一応「雇用」されていたものの、組織には就業規則も無く、社会保険にも加入していない状況。「作業所」には毎年自治体から年間数百万円の「補助金」が支払われてはいたが、当然それだけではやってゆけないため、毎月保護者たちから「会費」を集めたり、関係者や地域住人へ寄付を募ったり、週末にフリーマーケットでバザー品や手作り品を販売したりして資金を集め、なんとかやりくりしているような状態でした。
当時の僕の年収は、(いちいち計算などしていないので凡そですが)200万円ちょっと。
1日8時間(以上)×週5日 +α(休日の販売やクラブ活動、レクリエーションなど) でこれだから、今から見れば驚くほど少ないのですが、当時は、「まぁこんなものか」
という感じ。
もちろんこれでは所帯を持ったりするのは厳しい訳で、上司などからは入職一年目から 「早く自分の作業所を持て」という有言無言のプレッシャーにさらされていたのですが、
そこは上手いこと自分なりにかわしながらやっていたつもりでした。
給与所得者的観点から見た「労働環境」としては決して褒められたものでなかったものの、僕自身は、「自分の労働=価値が金銭に換算されるのなんてイヤだ」と思ってサラリーマン生活からドロップアウトした経緯もあったので、そんなことは問題ではなかった訳です。(当時は時代遅れのヒッピーにでもなったようなフワフワした気分でいたし…)
誤解を恐れずに言えば、「作業所」時代は、「先が見えない不安」と「未来への儚い希望」の間を行ったり来たりの毎日。苦しかったけれど、楽しかった。
しかし、そんな僕自身の実感を他所に、「時代の波」としての「障害者自立支援法」は、 そんな地域福祉の世界にも、確実に押し寄せてきていたのでした。
(text by 武井 剛)