8月で45歳になった。
お世辞にも「若い」とは言えない。かといって、「大人」になったという実感も、ない。
そんな訳で、なんだか自分のポジションがしっくりこなくて落ち着かない…そんな日々。
(もっとも今や日本人の年齢中央値は48.4歳らしいので、自分が子供だった頃のイメージで40代とか50代とかを捉えてはいけないのだろうけどね。にしても、である。)
何かに迷ったとき(まァたいがい僕は迷っている訳だが…)、引き戻されるのはいつも、「自分がまだ何者でもなかった頃」。もう少し丁寧に言えば、「何者かになろうとして
もがいていて、でもまだ何一つ始まってすらいなかった、あの頃」。
つまりは、「若さ」を持て余していた時期、で、
たぶん、そこに《答え》があるんじゃないかと、僕は今でも思っているのだろう。 (だから、うまいこと年をとることができない。困ったもんだ。)
そんな訳で、最近は気付けば自分が多感な時期を過ごした1990年代のことを考えている。
そんな折、
インターネット上のニュース記事で目にしたのが、二人のとある映画関係者の訃報(どちらも3年以上前のものだが…)。それで僕は、高校生の頃、将来は映画関係の仕事に就きたいとぼんやりと思っていたことを思い出したのだった。
という訳で、
さっそく関連するDVDを2本購入して、視聴。(サブスク?はて、何ですか?それは。)
※ちなみに僕が訃報に接したのは、日本を代表するクリエーターの高畑勲さんと米国の巨漢女優・ダーレン・ケイツさんである。
久々に見た映画は、この2本。
『平成たぬき合戦ぽんぽこ』(1994年・日本)
『ギルバート・グレイプ』(原題:What's Eating Gilbert Grape)(1992年・米国)
それぞれ、
監督は、東京大学文学部仏文科卒業のインテリ・リアリスト・高畑勲と、スウェーデン出身の庶民派・ラッセ・ハルストレム(出世作は『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』)。
舞台は、ニュータウン建設のため野山を暴力的に削りながらの開発が進む東京都郊外の多摩地区と、米国アイオワ州(中西部)の時代から取り残されさびれたスモールタウン。
主人公は、父親(たぬき)の影響で幼い頃から人間に興味を持ち、考え方も人間っぽく冷静沈着で、でも情に脆く仲間思いのため一族存亡の危機に立ち向かう青年(たぬき)正吉(野々村真が声を担当)と、過食症でひきこもりの母親(ダーレン・ケイツが怪演)と知的障がいがあり厄介ごとばかり起こしている弟(レオナルド・ディカプリオが熱演。ここから彼の快進撃が始まることになる)、さらに二人の姉妹の生活を背負っていて「自分のこと」はおざなりで、町の退廃に飲まれかけている青年ギルバート(20代のジョニー・ディップが好演)。
という具合に、
一見かぶるところなど皆無のように見えるこの2作品なのだが、その底流には共通のテーマが流れているように、僕には思えた。
それは、<外>から訪れたものによって、それまでそこだけで自己完結していた「共同体」が<自由>と<暴力>に晒され、その成員たちを繋ぎ止めていたもの(それは特定の人物や場所だったりする訳だが)が失われた時、残った人(あるいはたぬき)たちは、剝き出しの「自分」=「個」を抱えたままどうやって生きていくのか?ということ。
もっと言えば、
それでもなお人間たち(あるいはたぬきたち)は「共同体」を維持してゆくことができるのか?それとも、そんなことはそもそも不可能で、ただ《記憶》のみが彼らが生きた証、かつてそこに泣いたり笑ったりして互いに繋がっていた人たち(あるいはたぬきたち)が確かに存在していたことの証明となりうるのか?
そんなこと。
だいぶ強引な観方(読み方)をしていることは重々承知しているが、僕にはこの2本の映画は、そんな風に「切なく」迫ってきたのだった。
という訳で、特に何の結論にも至らないまま、この文章は終わる。
何でこんな文章を書いているのか、それは僕にもよく分からないのである。
(何なんでしょうね、いったい!?)
Life goes on!
(text by 武井 剛)