忘れた頃にコッソリ更新される、このブログ。
(あやうく更新の仕方さえ忘れかけてた・・・)
いったい何のために「記して」いるのか?と問われたならば(誰も問わないと思うけど)、自分でもその「目的」がよく分からぬまま、しかし、「書かずにはいられない衝動」というほど強烈なものではないものの、心の中から湧き上がってくる《なにか》に背中を押されるように、何となく気が向いたらとりあえず「記して」みる。つまりは、そんないい加減で、自由なスタンス。そのように答えたい。
あれ?これって私の「生きる」ことに対する姿勢と同じじゃんか?!
と、新たな(というほどでもないな…)発見のあった今日は、令和5年1月3日。お正月!
皆さん、本年もどうぞお付き合いのほどよろしくお願いいたしますm(__)m
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「生きる」ことにはいい加減だけど、社会人になってこのかた「働く」ということには
ほぼ全力投球を続けている私。しかも、投げている球はたいして速くもないストレート。
「生きる」のは自分のため、「働く」のは世のため人のため。
「生きる」ためには<理由>がいるが、「働く」のに必要なのは心身の<構え>だ。
「生きる」ことに比べて、「働く」ことの何と【楽】なことよ!
でも、「働く」ことを通じて自分が「生きる」土台をつくっているのだから、
結局、両者は繋がっているんだよね。ハイ、これが私の「労働観」です。
ちなみに、私にとって「生きる」とは、「自分をやりなおす」というほどの意味。
そんな訳で、ここ15年ほどはほぼほぼ働きづめの生活を送っている私だったりしますが、
唯一の長期休み(といっても1週間ほどだけど)の年末年始は、一年分の疲労が
”どっ”と襲ってくるのと、通常時の「働きモード」とは異なる自分になっているので、
人様にはちょっとお見せできないようなダラダラした姿で過ごしています。
そんな時に「心の友 by ジャイアン」よろしく「魂の地下二階」(by 村上春樹)への旅に誘ってくれるのが、私の場合、映画。
(ダラダラモードなので、結局、自室に閉じこもって観るのですが…)
そこで、今年はショーン・ペンが監督した『イントゥ・ザ・ワイルド』(INTO THE WILD・2007・米国)でも観るか!と意気込んでみたものの(何故意気込むのかって?
そりゃぁ<魂の暗部>を深くえぐられちまったら、現実世界に戻って来られなくなる
危険があるからですよ!)、なんと…配信サービスのリストに出てこない!うーむ、、
ペン様、何故だ??
前置きが長くなったけれど、それで代わりに選んだのが、『ノマドランド』
(Nomadland・2021年・米国)だったという流れです。
さすがにこちらはアカデミー賞主要3部門を受賞しているだけあって、Amazon の
Prime Video でも視聴可できました。(後々書くけど、このこと自体にもある種の
構造的な皮肉がある訳ですが…)
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さて、その『ノマドランド』。
噂に違わぬ素晴らしい映画でした!
それと、何ていうか…「アメリカ(合衆国)らしい」映画だなぁという印象。
でも、壮大なスペクタクルとか涙が止まらない感動ストーリーとか、そんな感じじゃない。むしろ、そのような喜怒哀楽から距離を置いた静謐さにこそ、この映画の良さはあるように思った。
「2011年1月31日、石膏の需要低下を受け、USジプサム社はネバダ州エンパイアの88年続いたプラントを閉鎖
7月からは町の郵便番号89405も廃止となった」
真っ黒な背景に白い文字で浮かび上がる上記テロップによる説明から始まるこの映画は、「今のアメリカ(合衆国)社会」の現実の一端を、そこでノマド=遊牧民のように漂流して生きる人たち(主に家を失った高齢労働者)に寄り添いつつ、一定の距離を保ちながら描くことを通じてその<孤独な魂>を浮かび上がらせていくというジャーナリスティックな手法を採りながら、厳しくも美しい大自然の映像と静かに流れる音楽によって包み込む。
公式サイトにあるように、監督・脚本はクロエ・ジャオ(趙婷、英: Chloé Zhao)という中華人民共和国出身の1982年生まれの女性で、描いている時代や社会課題、対象に対する視点の置き方など、こちらは1989年生まれの中国系米国人ビン・リューの『行き止まりの世界に生まれて』(Minding the Gap・2018年・米国)との類似点(相違点も)が感じられ興味深い。ついでに言うと、国家による軍事や経済戦争の先兵として身を削って働きやがて見捨てられた男の自らの手による「人生」の幕引きを描いたクリント・イーストウッドの『グラン・トリノ(Gran Torino・2008年・米国)と比較して観ても面白いと思いましたね。そう、アメリカ(合衆国)は、もう「アングロ・サクソンの国」じゃないんだ。
映画評についてはWeb上に優れたものがたくさんアップされていますので、是非そちらをご覧ください。以下にいくつかリンクを貼っておきます。
『ノマドランド』が映すアメリカの姿。過酷な状況とノマドの精神
「生きる」ということ − 映画「ノマドランド」を観る
フランシス・マクドーマンドはなぜ“みんなのお母さん”女優なのか 私生活と演じる役の 関連性
これらには書かれていないことで、私が考えたのは、以下のような身も蓋もないこと。
●地域コミュニティやネットワークを維持していくためには、その<土台>となる職と住、
つまり地域産業が「しっかりしている=<自立>している」必要があるということ。
(「企業城下町」のように特定の大資本に町の経済が依存しきっている状態は危うい。)
●Amazon(に代表される「ビッグ・テック」)の存在感!
古くからある地域コミュニティやネットワークの解体の一端を担ったのは、明らかに
GAFAMを始めとしたビッグ・テックだが、その結果「ノマド」となった高齢者たちに
労働と賃金(ついでに彼らの住まいである自動車を停める駐車スペースも)を提供するの
がクリスマス時期の配送で大忙しのAmazonの配送センターだいうこの皮肉!そして、
現代のノマドは家を無くしてもスマートフォンは所持していて(つまり労働で得た賃金は
テック企業によってオートマティックに吸い上げられる)SNSで情報発信や離れた相手
とのコミュニケーションを行っている。そのような寒々しい現実をごまかさずに正面から
捉え、それを批判するのではなく、ただカメラに収めたことが、映画の「リアリティ」を
担保していると感じた。
●<喪失>は「個人的な体験」で(何故なら「思い出」は個人的なものなので)、
それゆえ人を<孤独>にする。
しかし、<孤独>=孤立、ではない。ただし、それらが重なる時期もある。
●人が<喪失>から立ち上がるためには、一人静かに「過去」と向き合う時間が必要だ。
その時、傍らで「そっと見守っていてくれる誰か」がいれば、心強い。
●自身の魂の<孤独>に触れ、「社会」の外へと出た時、人は「世界」と繋がる。
「世界」と繋がることで、人は<癒し>を得る。
<癒し>とは「再生のためのエネルギー」だ。たとえその向かう先が死であるとしても。
何故なら、そこには本当の「自由」、つまり「魂の解放」があるから。
死してなお、人は「生きる」のだ。
●「世界」は残酷だが、美しい。
それは、人の手の力がおよばないところに、ただ「ある」から。
●「老いる」ことは、「いずれ死すべき運命」を受け入れること。
つまり、そのような自分も含めた「世界」を許し、「ありのまま」受け入れること。
●日本にも車上生活者はいると思うが、このような映画はおそらく成立しないだろう。
「個人として生きる」ことや勝者と敗者を永遠に生み出し続ける「競争」というゲーム
についての歴史的・社会的合意がないから。それは果たして、良いことなのかどうか…?
(そもそも「戦っている」という意識が薄いので「敗者」が生まれづらい一方、「敗者」
に対する慈悲や連帯の心も育ちづらいし、敢えてゲームを降りて「競争」の外に出る
「生きかた」を<選択>することの意味(価値と危険性)を理解することも難しい。
だけど、「競争」は今もそこかしこにあるんだ。)
うーん、、(昨日観たばっかりなので)まだ自分の中で整理がついていないような…。
とにもかくにも、ガツーンと衝撃を受けるって感じではないのだけれど、後からジワジワと「身につまされ」て色々考えさせられるような、そんな映画でした。
「良い映画」って、たぶん、そんな感じなんだ。
おっと、そろそろ現実世界(リアル・ワールド)に浮上せねば!