まもなく今年が終わろうとしている。
ということは、来年になり次の誕生日が来れば、自分もまた1つ歳をとるという訳だ。OMG!
「時間」とは本当に過去→現在→未来という一方行にしか流れないものなのか?そもそも「時間」は<存在>するのか?てゆーか「時間」っつーのは何?ということについてはどうも諸説あるようだけど、それにしたって、いつの間にか手元の文字が見えづらくなってるわ、なんだか白髪は増えるわ、運動してみりゃ痛みが時間差でやってくるわ、おまけに何かにつけすぐにメランコリックな気分に陥りやすくなっているわで、踏んだり蹴ったりな今日この頃。。。
C'est la vie!(それが、人生!)・・・って、ほんまかいな??
とにもかくにも、40代も後半に差し掛かり、流石に「老い」とか「死」といったものが、昔よりも「リアル」に感じられるようになってきているのだった。(…といっても、実は、まだ全然自分の年齢に”しっくり”はきていなくて、それで「年相応」のメンタリティや考えかたを身に付けたくて、背伸びしているようなところもあったりするのだけれど。)
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さて、「超高齢社会」と言われるようになって久しい日本社会。しかしながら「アンチエイジング」という言葉が象徴的であるように、人が「老い」ることや「成熟」することに対し積極的な<意味>を与えようとする言説は、年を追うごとに益々少なくなってきていると感じる。
実際、自分の周りを見回してみても、なんだか妙に子供っぽいというか「深み」とか「渋み」のないオトナが多いような気がする。(←自分のことは棚に上げて書いてますよ。)
まるで、日々進化し続けるテクノロジーや厳しさを増す国家財政(このことについても諸説あるが…)、経済環境の中で、「老い」ることは「変化」へ適応する上でマイナスという考えが世界を覆った結果、私たちは人として<成熟>することを許されなくなってしまったかのよう。
また、その反動からか、「老い」た人間が自身が築き上げてきた基盤や権力、財産を手放すことに対し怖れを抱き、若い世代に自ら地位を譲れないということも起きている。(逆に、若い世代の側も積極的に「老い」ることを拒否しているがために、先に「老い」た人間たちの地位を「引き継ぐ」ことができないということにもなっているようにも思う。)
このような「対立」が何ゆえに生じるのか?また「対立」を煽っているのは誰で、そこにはどんなメリットがあるのか?(あるいはないのか)という点は、私としては非常に気になるところだったりするのだが、それはともかくとして、先ほどたまたま視聴した以下の動画で語られている話は、生物学的な視点から人が「老い」ることの<意味>について誠実に解説している非常に意義あるものだと思った。
人は、いつか・死ぬ。
しかし、事故や病等により若くして死なない限り、その前に、必ず「老い」というものがやってくる。
それは、生物の中でも人に特有のことで、また、そのことに<意味>を付与するのもまた、人なのだ。
そんなことを思いながら、今年もまた暮れてゆくのだった・・・
Let it go!